2012年1月5日木曜日

難経七十難

七十難に曰く、

春夏は刺すこと浅く、

秋冬は刺すこと深きとは、何の謂いぞや。


然り。

春夏は、陽気上に在り、人の気もまた上に在り、

故に当に浅くこれを取るべし、


秋冬は、陽気下に在り、人の気もまた下に在り、

故に当に深くこれを取るべし、



春夏は各の一陰に到り、秋冬は各の一陽に到るとは、何の謂いぞや。


然り。

春夏は温、必ず一陰に到るとは、

初めて針を下すに、これを沈めて肝腎の部に至り、気を得て引いてこれを陰に持するなり、

秋冬は寒、必ず一陽に到るとは、

初めて針を内るるに、浅くしてこれを浮べ心肺の部に至り、気を得て推してこれを陽に内るるなり。


これ春夏は必ず一陰に到り、秋冬は必ず一陽に到るを謂うなり。




春夏秋冬の刺鍼法、その考え方である。

あたりまえのように毎日鍼灸をしていると、こんなことを考えずに治療をしてしまうのでは

ないだろうか?

こんなことが古典に書いてあるということを知らない鍼灸師も多いのかもしれない。

古典というと「漢文で読めない」「むずかしい」もしくは「現代には考え方などがマッチしない」などの

理由から選択されない方も多いと思う。


しかし、鍼灸という道具を使っている以上、その用法はそれにあったものがあるはずである。

その成り立ちや時代から考えて、ふさわしいものを選択するとき、やはり古典というものが先立つ。


コンピューターと会話するとき、コンピューター言語を用いるように

東洋医学の道具に接し、それを用いるならば古典というその時代に生まれた学術を用いることは

果たしてナンセンスなのだろうか?


それを検証するためにも僕は古典を追及し続ける。





徳見



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